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2009年05月17日

オアフ島真珠湾

オアフ島真珠湾

作戦構想

オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40センチ砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われる。

日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は異なる構想を持っていた。1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。

当時数少ない海軍将官きっての航空通の1人であった大西は、ある程度骨子を作った後、2月に第1航空戦隊の参謀であった源田実中佐に山本の意向を伝えた。源田は1週間後、オール爆撃案と、雷爆撃併用案の2つの案を作り大西に示した。真珠湾への航空攻撃の成否を左右するのは雷撃が可能かどうかであった。真珠湾の平均水深は12メートルである。当時の航空魚雷は攻撃機が投下し着水した後、平均数10メートル以上沈んでから航走しつつ調停深度まで浮上してくるものであった。これでは投下した魚雷はことごとく真珠湾の海底に突き刺さってしまう。

結局大西と源田は当時海軍が保有していた正規空母4隻と軽空母「龍驤」を主力とした部隊を用いて、雷撃は諦めて攻撃隊は全て爆装とした上で、水平爆撃と急降下爆撃を行うという案を山本に提出した。水平爆撃に関しては当時既に長門型戦艦の主砲弾を改造した800キロ徹甲爆弾が完成しており、命中率は低いものの敵戦艦の撃沈は物理的に可能であったからである。これに対して山本は不満を表して「雷撃ができないのなら真珠湾攻撃は諦める」とまで言ったといわれる。そこで大西は雷撃に関しては攻撃前までに攻撃法を研究開発することにして、雷爆撃併用に案を改めた上で山本の了解を取り、軍令部第一部長福留繁少将に作戦準備を依頼した。
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2007年12月02日

硫黄島 (東京都)

硫黄島 (東京都)
硫黄島(いおうとう Iōtō/ いおうじま Iwo Jima)は、

東京都小笠原村に属する東西8km、
南北4kmの火山列島(硫黄列島)中最大の島である。



一番標高の高い地点は摺鉢山で標高169mである。


現在自衛隊の基地となっている硫黄島は、
旧島民らの慰霊や基地施設の工事などの例外を除き、
一般民間人及び外国人の上陸は禁止されている。



1945年度ピューリッツァー賞 写真部門を受賞した『硫黄島の星条旗』(ジョー・ローゼンタール撮影)という写真でも知られる。



これは太平洋戦争中の1945年2月23日、
硫黄島攻防戦においてアメリカ海兵隊が
摺鉢山に星条旗を掲揚した写真。

また、硫黄島からの手紙なども有名になっている。
posted by 戦中・戦後から平和を at 22:29| 晴れ| 硫黄島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月21日

海軍飛行予科練習生 歴史

海軍飛行予科練習生 歴史
昭和5年(1930年)に創設され、
旧制高等小学校卒業者で満14歳以上20歳末満で厳しい試験に合格した者のみ採用され中堅幹部育成の為の教育を受けた(後の乙飛)。



昭和12年(1937年)、更なる搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期予期修了以上(後に3学年修了程度)の学力を有し年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。


なお、前記の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。


この改編に伴い、
操縦練習生の名称を丙種飛行予科練習生(丙飛)に変更。


また昭和18年(1943年)から戦局の悪化に伴い乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。


当初は、横須賀の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭な為土浦海軍航空隊に(霞ヶ浦飛行場が有名)変更になった。



戦局が悪化による大量育成の為、
更に予科練の練習基地は全国へ広がっていった。


なお、各予科練を甲・乙・丙と言う優劣を表す名前に変更した為、また昇進速度の違いなどもあり対立関係が問題となった。



また甲飛の募集のさい、海軍兵学校並みの待遇や進級速度と誤解を受ける募集方法だった為に間違えて甲飛に入隊してしまった例も多い。
posted by 戦中・戦後から平和を at 11:33| 曇り| 海軍飛行予科練習生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海軍飛行予科練習生

海軍飛行予科練習生
海軍飛行予科練習生(かいぐんひこうよかれんしゅうせい)は、


太平洋戦争(日本では当時大東亜戦争と呼ばれた)時の海軍飛行兵養成制度の一つ。


志願制。通常"予科練"と略称で呼ばれることが多い。

posted by 戦中・戦後から平和を at 11:32| 曇り| 海軍飛行予科練習生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

阿波丸事件 概要 積載物

阿波丸事件 概要
積載物

撃沈時にはシンガポールからスズ3000t 生ゴム3000t その他の貴金属、希少金属類等が積載されていた。


また便乗者として官僚や大手民間会社の社員なども乗り込んでいた。


なお、このような戦時禁制品や
官僚の輸送は本来の許可内容から外れるものであった。



また、戦時中に行方が分からなくなった北京原人の頭蓋骨が積載されていたという説もあり、数年前には中華人民共和国政府が船体の引き揚げを計画しているとの報道がなされた(実際に船首と時鐘、遺骨は引き上げられている)。

posted by 戦中・戦後から平和を at 11:30| 曇り| 阿波丸事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国際法違反

阿波丸事件 概要
国際法違反

撃沈直後より戦時国際法違反として日本は抗議、

アメリカ側もこれを受け入れ責任を認めた上で、賠償問題については戦時であり直ちに交渉することは困難であるとし、終戦後に改めて交渉を行なうことを提案。



戦後になり日本側から賠償の要求が行なわれたが、

最終的にはアメリカをはじめとする連合国の占領下におけるGHQからの意向を受け、半ば強制的に賠償請求権放棄の決議が国会で行なわれ(昭和24年)、日本政府は請求権を放棄した。

posted by 戦中・戦後から平和を at 11:27| 曇り| 阿波丸事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

阿波丸事件 概要

阿波丸事件 概要
緑十字船

この事件で、船員1人を除く2129名(2004名との説もあり)が死亡した。その多くはシンガポールから内地への引き上げ者だった。


なお、阿波丸は、アメリカ政府の「日本占領地のアメリカ人捕虜へ慰問品を送ってほしい」という要請に応じた緑十字船であり、これに基づき阿波丸は病院船扱いの安導権(=Safe-Conduct)を与えられ、船体は白く塗られ、夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。この様に航海の安全が保障されていたにもかかわらずどうして攻撃されたのかなど謎は多い。

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阿波丸事件

阿波丸事件
阿波丸事件(あわまるじけん)とは、


1945年(昭和20)4月1日に
シンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、

アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ」

{USS Queenfish (SS393)}の魚雷3本(4本との説もあり)

を受け台湾海峡で沈没した事件。
posted by 戦中・戦後から平和を at 11:24| 曇り| 阿波丸事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

政府首脳・重臣への襲撃 高橋是清

政府首脳・重臣への襲撃 

 高橋是清


高橋是清大蔵大臣(元総理)は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together.jpg/250px-Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together.jpg



積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかる。


高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から海軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。


叛乱当日は中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋是清大蔵大臣の私邸を襲撃した。


警備の玉置英夫巡査が奮戦するが重傷を負う。

反乱部隊は蔵相の殺害に成功した。


高橋是清は事件後に位一等追陞される
とともに大勲位菊花大綬章が贈られる。

27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。
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政府首脳・重臣への襲撃 岡田啓介

政府首脳・重臣への襲撃

岡田啓介


天皇大権を掣肘する「君側の奸」として岡田啓介総理(予備役海軍大将)が襲撃の対象となっている。

全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長が率いた。


反乱部隊が総理官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた村上嘉茂衛門巡査部長(官邸内で殺害)、土井清松巡査(林八郎少尉を取り押さえようとするが、殺害される)、清水与四郎巡査(庭)、小館喜代松巡査(官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で果敢に応戦するが、襲撃部隊の圧倒的な兵力の前に抵抗むなしく殺害される。


しかし、警察官の応戦の隙に岡田総理は押入れに隠れることができた。その間に岡田総理の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた松尾伝蔵大佐は反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺された。


将校らは岡田と容貌が似ていた
松尾を総理と誤認、目的を果たしたと思いこんだ。


一方、総理生存を知った福田総理秘書官と迫水久常総理秘書官らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹及び小倉倉一憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日に岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。
posted by 戦中・戦後から平和を at 19:24| 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 二・二六事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする